記念講演

野球解説者 太 田 幸 司

『私の野球人生』(要旨)

 創立50周年おめでとうございます。この席に呼んでいただき光栄に思っております。野球とそろばん、全く畑は違いますが参考になる部分もあろうかと思いますのでお聞きいただきたく存じます。
 私の野球人生ですが、小4から本格的に野球を始め、小学3年、中学3年、高校3年、プロ15年間、トータル現役プレーヤーとして24年間、引退して解説者、スポーツキャスターとして24年やってきました。今年で56歳になります。人生の中で48年間野球に携わり、これからも死ぬまでずっと携わっていくとおもいます。
 野球という、ある意味非常に狭い社会、たかが野球されど野球とも言われます。血液を調べれば、みなさんは白血球、赤血球、私にはそれプラス野球という血が流れております。私には野球以外なにもありません。しかし野球を通して楽しかったことあり、苦しかったことあり、そして地獄もみました。たくさんの経験をしました。いろいろな人との出会いは私の人生を変えました。
 私が投手になったのは三沢一中1年の時。それまで外野手でしたが、肩が強くてビュンビュン速い球を投げるのを見て、監督だった立崎先生から「ピッチャーやってみろ」と言われたのが投手としてのスタートでした。しかし、コントロールはぜんぜんダメ、どこへ球が飛んでいくかわからない。投手はダメだな、また外野手に戻されると思っていたら監督が「球が速ければそれでいい」と言われました。監督が私の素質を見抜いていたのか、いいかげんだったのかわかりませんが、その一言がなければ今の自分はなかったのです。立崎先生と出会ったことが大きな第一歩となったことを忘れることはできませんし感謝の気持ちで一杯です。
 高校進学の時には、八戸高校か三沢高校かで悩みましたが、仲間たちと一緒に野球をやりたい気持ちが強くなり、小学校からのチームメートと一緒に三沢高校に入学しました。1年の秋、3年生が抜けて新チームとなりました。部員は2年生4人、1年生9人の13人でスタート、鬼コーチ(堤喜一郎氏)の厳しい指導で肉体的にも精神的にも鍛えられました。堤氏が三沢高野球部の礎を築いたと言っても過言ではありません。秋の上十三地区大会を勝ち、県大会で準決勝まで勝ち進み、翌年春の県大会では準優勝でした。やれるという自信がついてきました。そして夏の甲子園予選、たまたまこの年は50回の記念大会で奥羽大会はなく、一県から一校出場、これはチャンスだとおもいました。勝ち進み、決勝は八戸工業と対戦、延長戦の末勝つことができました。甲子園出場が決まりました。夢また夢の甲子園が現実になったのです。その瞬間、涙がこみあげてきました。こんなに嬉しかったのは、後にも先にも、この1回だけです。
 甲子園初出場で1勝し、翌春の選抜大会でも1勝、甲子園でも勝てるんだという自信が芽生えていきました。そして昭和44年夏、すべて接戦をものにして決勝に進出しました。相手は過去に優勝経験のある松山商業、名門だけにプレッシャーが相当あったと思いますが、こっちは負けてもともと、ぶざまな負け方だけは避けたいという精神的に樂な気持ちで臨めました。試合は9回を終え、延長戦に入りました。井上投手(相手投手)はフラフラ、私は気合いが入っていましたが、足が重たく肩に力が入らない状態でした。ところがボールだけは走っていました。うまく力が抜けていたのです。負けないぞという強い気持ちで投げ続けましたが決着はつかず、延長18回引き分けで翌日再試合となりました。宿舎では、食事が喉を通らない、うだるような暑さなのにクーラーはダメ(昔は肩を冷やすのは厳禁だった)、母の作ってくれた毛糸の肩当てをして休みました。翌朝は起き上がることができず金縛り状態、肩はあがらない、箸があがらず、頭をさげ口をもっていって食事をする始末でした。
 決勝再試合では、とにかく守り続けるんだという気持ちだけで投げました。結果は負けましたが、相手は継投、自分は一人で投げ続けたことを誇りに思いました。チームメートは涙を流していましたが、私は雲ひとつない、真っ青な空を見上げ、やることはすべてやった充実感で一杯になり、涙の一滴も出ませんでした。それこそ「自分をほめてやりたい」という心境でした。高校生活で学んだのは、夢・目標を持って努力する、努力すれば頑張れる、それが結果に繋がる、根気よく楽しくチャレンジしていくということです。
 さて、高校を卒業、ここから地獄が始まったのです。ドラフトで近鉄に一位指名されプロとしてスタートしました。私には直球しかなかったので、2〜3年鍛えて、それから一軍に上がれればとおもっていたのですが、周りはそれを許してくれませんでした。活躍して欲しいという声、期待はふくらむ一方でした。その年のオールスター・ファン投票、なんと僅か1勝の投手が一位になってしまったのです。つらいだけで何もありませんでした。 そして、2年目に地獄を見ることになるのです。投げるとホームベースの2〜3メートル先にボールが落ちる、フォームがバラバラ、手からボールが離れない、どう投げたらいいかわからない状態になってしまったのです。そしてオールスター投票でまた一位、自分で手を切ってケガでもして辞退したい気持ちでした。マスコミには人気先行、力がないと叩かれました。
 シーズン終わりに野球を辞めようと真剣に考え、周りの方にも相談しました。そこで一人の方に出会ったのです。お世話になっている方に連れられて、あるお寺で座禅し、そこの住職さんからの話で私の人生は生き返りました。
「あなたは高校時代の太田幸司を演じ続けていませんか。そのままで来ていませんか。あれはあれ、すべて忘れなさい。新しい自分を作りなさい。新しい生き方を見つけなさい。今はつらいでしょうが、もっと楽しく野球をしなさい。プライドは大事だがプライドほど怖いものはない。プライドが生き方の邪魔をすることがある。プライドはあくまで土台としなさい。その上に新しい建物を建てなさい。甲子園の経験はすばらしいこと、それを土台と考えなさい」
そのお話を聞き、もう一度やってみようという気持ちになりました。そして、フォームの改造、球種をふやすためスライダーとシュートの収得に励みました。新しい形がものになってきて迎えた3回目のオールスター、甲子園球場で先発、3回表ノーアウト満塁、バッターは王選手、おぼえたてのスライダーでショートフライに打ち取り、次の長嶋選手をシュートでセカンドゴロダブルプレー。王、長嶋を抑えたことが大きな自信となりました。それから勝ち星が増えていきました。一人のお坊さんのお話で私は立ち直ることができたのです。
 近鉄13年、巨人と阪神で各1年、計15年で58勝85敗4セーブ。私のプロ野球人生、良いときはほんの数年で苦しい時の方が多かったのですが、2年目の危機を乗り越え、よく15年続いたな、頑張ったな、良くやれたなという満足感で一杯です。
 そして引退、なにをしょうか、どうしょうかという時に、毎日放送から野球解説者をやってみないかというお話があり、やらせていただくことになりました。アナウンサーから聞かれたことに答える仕事ですが、現役時代はほとんど喋りませんでした。揚げ足をとられ、おもしろおかしく曲げて書かれることが多かったからです。あるデスクには「お前ほど取材しにくい奴はいなかった。今は饒舌になったなあ」と驚かれました。
 2年目には、ラジオのキャスター、つまり自分がメーンの仕事をやらないかと誘いを受けました。私は新しい自分を見つけたい気持ちから引き受けました。わかりやすく伝えるために、アナウンサーの練習方法を積みかさねました。野球の現場に戻りたいとも思っていましたが、この仕事のおもしろさを感じるようになり、生涯この仕事をしようと考えています。
 今はプライドを捨てて、プロ2年目で味わった経験を生かしています。その日その日を必死で生きる、今日を大事にすることが明日に繋がる、何事も積み重ねです。そろばんもそう、努力の積み重ね、根気が命です。今の子はコツコツと続けることが苦手ですが、ちょっとやって辞めるではなく、ある程度つきつめてやって失敗することも必要なのです。
 うちの下の子は小学2年生ですが、そろばんを習わせてみようかと思っています。そろばんのブームが来ているとも聞いています。そろばんは日本の文化、歴史と伝統があります。古いものがあって、その上に新しいものが積み重なって歴史、伝統が生まれます。みなさんには、そろばんの指導に頑張っていただき、さらに積み重ねられますようお願いいたします。
 本日はありがとうございました。

M E N U